昭和三十九年 11月5日朝

 信心の有難さ、又は信心を身につけてゆくたのしさ、そうゆうような有難さとかたのしさがあるから、教祖の神様の信心はみやすいものじゃといってある。その有難さも無かったら、たのしさもなかったら、こりゃむつかしい。
 朝のおつとめをさして頂くにも、信心のない者は、まだぬくぬくとふとんの中に寝ているのにもう起き上がって、でてこなければならぬ。それだけでもむつかしいが、そこに有難さがある。そこにたのしさが感じられるようになるから、信心は有難いのであり、信心はみやすいといえれるのではないか。
 早起きをするというだけでも、むつかしいけれども、そこには必ず有難さが伴う。又は信心が、一歩一歩身についてゆくことがたのしくなってくる。小倉の初代の御理解の中に、人を助けて、我助かれと、自分が助かるために人を助けるのだと、いうようですけども、それだけでは助からん。問題はね、人を助けさせて頂く有難さや、たのしさができてくるからおかげ頂く。おかげで助かりましたと言う人が、だんだん増えていくことが有り難うなってくる。この人をどうでん助けなければ、自分が助かるために、という条件があったら、このみ教えはホゴになるわけですね。
 人を助けさせてもらうことが有難いことになってくる。たのしゅうなってくる。こうゆう心の状態に、われも助かってゆくところのおかげ頂く。
 どうでしょうかね。私達のこれからの生涯がです、人が助けられることのために、たのしみ、又は有難味を感じるような信心になったら、いよいよ信心が有難いものになってくるのでしょうね。そしていつのまにか私がおかげ頂いて、いつのまにか極楽世界に住みかえられるというおかげになってくる。
 たとえば人が助かることよりも、自分が助かるために祈るのであったら、むしろ神様の機感にかなわぬのじゃないか、甘木の初代がまだ甘木に布教されてまもない頃であった。町内の有力者が重体におちいられた。金光様があるからというので、町内から願いにきた。安武先生が喜ばれた。この人が助かれば教団のため、お広前のため、役に立つ人になるだろう。道開きのため役に立つ氏子と思います。どうぞ助けて下さいと、祈りを捧げられたのですけどまもなく亡くなられた。わかるでしょう。神様が云うことを聞きなされなかった理由がわかるでしょう。安武先生の心の中にです、問題は人が助かりさえすえばよいというだけではなかった。この信者が助かったら、教会のために働いてくれるのだろうと、一生懸命すがられた。神様の機感にかなわなかった。さすがに安武先生、そのことあって以来、又自分の教え子にもそういわれたそうです。この信者が助かったら、こうゆうふうに役に立つことだろうという祈りでは、自他共に助かりにならない。教祖の神様がおっしゃる此方は、人がたすかりさえすればということでなければ、自分が助けた。お取り次ぎを頂いて助かった人が、悪いことになっていってもです、恩を仇で返すということさえあるのですから、たとえそうゆうことになってもです、問題は無いということです。人が助かることが喜びである。たのしみであるということに私共が奉仕する、そうゆう心の状態を神様が喜ばれる。その喜びがその人自身を助けておる。そこが人を助けて、我助かるである。
 福岡の東さんが、夜の御祈念に参ってくる。警察官ですから朝参りができない。宿直以外は。毎晩参ってくる。昨日神様にお知らせを頂いた。z教えを頂くということは、丁度ニワトリが、ニワトリ小屋に飼われるようなもの。私共信心させて頂く者が、教えを守ろうと思わぬ。参りよることは参りよるが、教えにそっぽをむいている人がある。教えを行じようとつとめない人がある。つとめたくてもつとめられんのならまだいいけれど、はじめから教えを守ろうとしない。はじめからそっぽを向いている。前に教えはあるのに、前の方は見らずに後ろの方ばかり向いている。丁度鶏小屋に飼われているようなもの。食べることは心配いらんねそりゃ人間が鶏飼って、放っからかしている者はおらん。時間が来ればエサを与える。信心の教えにそっぽを向かずに、本気で正面から取り組もうとしない。ある意味あいでは、今まで自由我まま勝手な、そうした人には、成程きゅくつである。右にいこうと思っても、み教えに左がよいと書いてる。もう自分の意志をしばられるようなもの。いわば鶏小屋に居るような感じです。だんだんわからせてもらうことは、それがどんなに安心の生活であるか、一切を神様にまかせての生活、私は教えに一生懸命取り組んでゆく、そこに神様のおまかないというか、必要なものは必要におおじて、神様がくださらなければならないだから、こちらは神様の分域にまで入っていきよるような信心ではつまらん。
 人間の分域と神様の分域というものがある。信心しておっても教えにそっぽを向いておいて、おかげにならんとか、助からんとか云っているようなものである。たしかに信心さして頂いていると、教えとか道とか云われる。だからこの道を歩かんならんのであり、教えを守らんならんのである。そこえ焦点さえおいておけば、それは人間が鶏を飼っているように、みずをあたえたり、エサを与えたり、必要なことは必要に応じて、こっちは喜びの卵を産んでゆけばよい。いよいよ人が喜んで、その鶏を大事にするように、私共そこのところをわからにゃいかん。卵を産まんなら、この次ぎ何かある時しめじゃこてということになる。そうゆうお知らせ。きゅうくつである間は、自分の信心不足であると感じる。過去にあまりにも我まま勝手な生活をしてきておったからであって、実はこんなに有難い生活はないということである。
 交通事故の事故係をやっているのです。昨日福岡で事故があって、即死された人がある。そのことをお願いしよったらね、しゃれこうべが一生懸命おすがりするところを頂いた。自分の仕事の圏内でそうゆう事故がおこったときは、せんならんのじゃない。そうさせてもらわなならない心を育てて頂いている。即死をされたみたま様が、折れた線香の一本でも枯れたお花の一本でもと、手向けてくれと申しますでしょう。信心のある人にそうしてすがるのです。思いがけない所で、はねられて死にました。そこで縁のある人、力のある人にすがっても、知らん顔しておってはみたま様の浮かぶ瀬がない。そうさしてもらわなければおれん。助けなければやまん。人を助けるということがです、それが生身の人間であろうが理屈は同じこと。縁があるのであるから、その霊の冥福をいのらせてもらう。おれた線香の半分でもあげさせてもらうという、その心の状態を神様がお喜びになるのである。
 そうゆうことが人を助けてと言うことになり、自身が助かってゆくことになり、三年が五年、五年が十年と、私の商売が、例えば東さんが自分の周囲にそうゆう難儀な人を見たり、聞いたりしたときに、その人のために十円のおさいせんでも奉らせて頂いて、霊様の助かりを願われるならば、霊の喜びじゃない。神様の喜びとなり、東さんのお徳になってゆかぬ筈はない。
 そうさして頂かねばおれぬ心が、人を助けて吾助かる。何か漠然としとる。自分たちのような者が、神様聞いて下さるじゃろうかという気もする。大きな岩壁に向かって、それを抱えようとする。それは抱えられぬかもしれぬ。いくら押しても微動だにせぬかもしれない。それが三年、五年、十年たっていくうちに、それは微動だにせぬように見えるけれども、こちらに力こぶしができているようなものじゃないだろうか。この事じたいはおかげになっていないけれども、自分自身の力がついている。その力が一切のおかげの元になってくる。
 昨日久しぶりに福岡の富永さんが参ってみえました。「先生家内が盲になりました」私はじょうだん言ってあると思いました。私はビックリした。あんなにげんきな奥さんが、それで現在の四百四病の中で、この病が一番むつかしいという病だそうです。全身病だそうです。もう手のほどこしようが無い。はじめ口元で、体の柔らかい部分にでて、胃の中に、胃も壊れているが、せいぜいもてて五年の命。自分はそれをぜんぜん知らない。どうもない。痛くもなければ痒くもない。それで自分で茶碗の問屋さんをしておられますから、喫茶店でもやろううと、自分が亡くなるのも分からず、方々へ電話をかけているのを見ると、切なくてたまりません。
 室見川の堤防にでて、椛目の方を向いて泣いてすがりよります。お参りしようと思っても、家内がはずしません。秋永先生に相談したら、そんなだいじなことを早くお届けせんかと言われて、今日は参ってきました。私ごしんを頂きましても、もう助からないたとえば人生さまざまの節があるけれども、節を元気でのりこえれば先が頂けるというけれども、もうこの場合は木でいうなら、上がチョッキッと切ってあるようなもの。節があっても、横からチョットでているようなものですから、私はそのことを申しました。これは夫婦の仲にですたい、家内の助かりを思うなら、修業してでも、おすがりしようという気にならせて頂いて、岩壁に向かって一生懸命力をだすようなもの。だけれどもあなた自身に力を頂けるから、そこに楽しみを感じて信心するならと私は申しました。もうどうせ助からんようなら、そんなに一生懸命になったちゃというか、とにかく先生なくなるまで、五年生きるなら半年でも、一年でも長生きするならそれでよいと言われますから、そんならその気でおすがりしなさい。無駄働きのようだけど、一生懸命信心なさって、本人が力を頂けたら、枯れ木に花の咲くようなおかげが頂けると私は感じた。それを言うたら条件がつくから言わなかった。もう涙を一杯ためてですね、どうか助けて頂きたいと、弟さんがお医者さんです。しんせきの者には、言い渡してある。知らんのは本人だけですね。だからよけいせつないわけです。信心はこれからなんです。限りない働き、不思議な働きていうのはこれからなのです。人間ではつまらんです。どげんがんばったちゃ、もうつまらないとわかっていても、夫婦の愛情と言うか、そのため修業をさせて頂いて、五年生きるところは五年半でも六年でもと、お生かしのおかげを頂ける。一生懸命すがるならこれから先のことはまだ未知数。枯れ木に花が咲くというのはそこなんです。誰かみてもこりゃつまらんという。つまらんでもすがらなければおれぬ心が、神様の心にかなう。
 そのかんに力ができる。その力がです、今までいやすことのできなかった病人がいえたり、ひろけん道がひらけたり、枯れ木に花が咲くようなおかげというのは、それから先のことですね。お互い信心さして頂きますと、きゅうくつに感じますけれども、それは今まであまりにわがまま勝手な生活をしていたから、きゅうくつに感じるだけのこと。そこで鶏が鶏小屋に飼われるように与えられるもの。その力に応じて与えられるものを有難いと頂いて、心の状態がです、人を助けて吾助かることが、たのしみの状態になってきたら、神様が安心し給うのです。自由ほんそうなあり方にならせて頂き、神の機感にかなうあり方になってしまうからです。
 今日午後から、久留米の歌舞伎に家内と二人招待を受けた。相撲がはじまったら砂かぶりに是非案内したいといわれる人がある。何とはなしに鶏小屋のとが取られたような気がする。私が芝居を見ておっても、相撲をみておっても墜落することはないと、神様が信じてくださったあとは、自由ほんそうだと思う。だから小屋の中に飼われているこの中にです、初めは「はい」という感じるれる信心をなさねば駄目だということ、不自由を感じるということはすでに教えを行じているということです。その教えを自分のものになってしまう。血肉になってしまう時には、自由に飼い放す。自分の行きたいところに行くし、しかもその卵は地卵と言って、すばらしい卵を産んでゆけばよい。
 今日私は東さんのそのことから人を助けて吾助かるということ。この人を助ければ自分も助かるじゃない。甘木の先生じゃないけれども、町内のこの人が助かればお広前の役に立つじゃろうと、願うたのでは助からなかった。取り次ぎをする者は心せねばいかんぞと、お弟子さん達に教えられたと言うことです。
 これは中々財産家のごたる。これが助かってもらえばどんどん増える。そんな気持ちでお取り次ぎしてはいかん。自他共に助かってはいかないということ。
 取り次ぎ者だけじゃない。皆さんとても同じことというて、さわらぬ神に祟りなしというこではなくて、東さん。ぜんぜん知らぬ赤の他人のことでも願わさせて頂く。霊様の一人一人の助かりを願はさせて頂かねばおれぬ心をだんだん育ててゆくのが信心である。人の助かる喜びが自分の喜びに感じられる信心。そこにはじめて人を助けて、吾助かるというのはそうゆう意味だと、私達の周囲にどれだけ人がうるおうてゆくか、それだけ人が助かってゆくかどうしたら広い範囲に折れるようになるかというところに、楽しみを感じさせて頂く。有難さをわからせていただくような信心になって参りましたら、むつかしいけれども楽しい。してみるとそれは、もうむつかしいということにはならんでしょう。楽しい有難いことをさせて頂いているだけのこと。そういうふうに信心が成長していかなければいけない。ね、いつまでたっても自分だけのことに終始した信心では、私は(?)もったいない。教えを信心すれば窮屈になると。確かにそれは窮屈になります。ね、けれども、その窮屈になる、窮屈の中に、また味わいを感じさしてもらえれる信心。その先に窮屈ではない自由な、ね、いわば極楽天地が開けてくることを楽しみにね、お互い信心させてかにゃいかんと思うんですよ。ありがとうございました。